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ネコの行動研究で博士号!美大出身編集者が社会人博士課程で学位と同時に得たものは?
ファッション誌の編集者から、ネコの行動研究で博士号取得へ―。そんな異色の経歴を歩むのは、昨年(2025年)、書籍『ネコは(ほぼ)液体である ネコ研究最前線』を出版された服部円(はっとり・まどか)さんです。
美術系大学出身で科学のバックグラウンドがないという圧倒的に不利な条件にもかかわらず、育児と仕事を両立させながら理学博士号を取得しました。その過程が相当に困難なものだったことは想像に難くありません。
非理系社会人が理系大学院生としてどのように学び、数々の壁を乗り越えたのでしょうか?
前述の著書は、ネコ研究に関する39本の論文を、研究の地道なプロセスまで詳細に紹介しながらも、専門家でなくても読み進められるように、わかりやすい文体で書かれています。
“編集”と“研究”という二つの専門性を活かした独自のキャリアを切り拓く服部さんの経験は、学位取得を検討中の理系学生さんはもちろん、分野を問わず「学び直し」にチャレンジしたいすべての人にヒントと勇気を与えてくれます!
美大出身編集者、39歳から大学院で生物学を学ぶ
―― 服部さんの博士課程での研究内容について教えてください。
博士論文のテーマは、ネコとヒトとの関係性についてです。「ネコとヒトとの関わり方」という点に興味があり、ネコの行動観察や飼い主へのアンケート調査のほか、オキシトシンなどのホルモンを組み合わせた、複合的なアプローチで研究をすすめていました。行動観察については、イヌやチンパンジーなどの研究で行われていた先行研究の手法をベースにネコ用にカスタムし、主に飼い主さんのご自宅に伺って、ネコの行動を録画解析する方法を採りました。
―― どうしてネコを研究しようと思われたのですか?
子どものころからネコが好きでした。研究の直接のきっかけになったのは、友人たちと立ち上げた、ネコ好きのクリエイターを取材するWEBマガジン「ilove.cat」の取材です。ネコの話をするとき、どんな人でも本音や素顔が垣間見えることに気づき、「ネコとヒトとの関わり方」に興味を持ちました。
そんな中、当時東京大学にいらっしゃった齋藤慈子先生(現・上智大学准教授)に出会います。
先生の論文「ネコは飼い主の声を聞き分けられるか」に興味がわき取材を申し込んだのですが、お話を伺うなかで、「家猫の研究は、犬と比べてなかなか進んでいない」という現状を知りました。古くから人間と生活を共にする身近な伴侶動物なのに、猫の認知能力や社会性については、まだまだわかっていないことが非常に多いと聞いて、純粋に「深く研究してみたらおもしろそうだな」と感じました。
―― それですぐに大学院に?
いえ、それから少し時間が経ち、出産を機に仕事を一度お休みするタイミングが訪れました。そこで自分のキャリアを考え直したとき、「これまでとは全く違うことをやってみたい」という気持ちが湧き上がってきて。そのとき、ふと齋藤先生とのお話と、ネコ研究のことを思い出したんです。
自宅から通える範囲内でネコの研究を本格的に行っている研究室を探し、見つかったのが、麻布大学大学院 獣医学研究科 動物科学応用専攻博士前期課程でした。当時、社会人大学院生はいまほど一般的ではありませんでした。のちに指導教員となる菊水健史先生の「ちゃんと『出版される学術論文を書く』ということを目標にするのだったら、受け入れますよ」という言葉が、私の進む道を決定づけることになります。恥ずかしながらそのときに初めて、大学院の本分が勉強ではなく「研究」にあるということに気づかされました。
―― そこから博士号を目指そうと思ったのは、何かきっかけがあったのですか?
修士課程の2年間はちょうどコロナ禍と重なり、どうしても研究のペースを落とさざるを得ませんでした。その結果、目標としていた学術論文を修士課程のうちに世に出すことができなかったんです。
その悔しさがバネとなり、菊水先生との約束をなんとしても果たしたい、絶対に論文を形にしたいという思いが強まりました。そこで博士後期課程に進むこととし、修士課程で共同研究をしていた京都大学野生動物研究センター(当時)の山本真也先生のラボに編入しました。正直なところ、進学当初は「博士号を最後まで取り切る」というリアリティまでは持てていませんでしたが、「まずは飛び込んでみよう」という気持ちでの新たなスタートでした。
仕事と育児と研究と。社会人大学院生の味方はオンラインツール
―― 仕事、育児、そして専門外の分野での研究という「三重の挑戦」は、想像するだけでも大変です。どのようにして、多忙な日々をこなしていらっしゃったのでしょうか?
まず大きかったのは、仕事がフリーランスの編集者だったことです。自分でスケジュールをかなりコントロールできたので、大学院との両立がしやすかったのです。
そして、もう一つ大きかったのは、ちょうど時代の変化が重なったことです。コロナ禍をきっかけにオンライン化が一気に進み、通学にかかっていた往復3時間ほどの移動が不要になりました。ゼミや会議、先生との研究相談もオンラインでできるようになり、研究に充てられる時間が格段に増えたんです。もし毎日移動が必要な環境だったら、研究を続けるのは難しかったかもしれません。
―― 昔も今も働きながら学位を目指すのは困難であることに変わりはありませんが、オンラインツールの普及により、かなり挑戦しやすくなってきてはいるのですね。
美大出身者が理系の「作法」を身につけるまで
―― 自然科学の研究スキルは、どのように習得されていったのでしょうか?
美術大学出身で、論文を書いた経験がありませんでした。そのため大学院での研究はまさにゼロからのスタート。だからこそ、変なプライドを持たずに「基礎から学び直そう」という素直な気持ちで、年下の学生たちからも謙虚に学ぶことができたと思います。
とくに文章の「書き方」は大きく学び直す必要がありました。編集者として携わってきたインタビュー記事などは、「表現の多様性を楽しむ」文章ですが、アカデミックライティングは、的確に正しく伝えることが第一義。まず「結論から言う」というのがお作法です。そこにまずカルチャーショックを覚えました。科学論文の書き方に関する本を何度も何度も読み返しながら、書いては直し、書いては直しと体で覚えていきました。
―― 逆に編集者としての経験が強みになったことはありましたか?
実験道具を作ったり、ビデオ撮影をしたりといった実験そのものにまつわる作業については、もともと得意分野というか、美大でもファッション誌の撮影でも培ってきたスキルが活きたこともあり、苦ではありませんでした。
また、メディアの仕事で培ったコミュニケーション力はかなり役立ちました。ネコの行動観察については、イヌの研究などで行われていた先行研究の手法をベースにネコ用にカスタムし、主に飼い主さんのご自宅に伺って、ネコの行動を録画解析する方法を採るため、飼い主さんの協力なしには成り立ちません。SNSで研究参加者を募集したり、飼い主さんと丁寧にやり取りしたりといったことが、とてもスムーズにできたと思います。
―― 一番ご苦労されたことはなんでしょうか?
一番の壁は、統計解析でした。統計だけは「勉強しても勉強してもわからないことだらけ」という状態でしたが、突破口になったのが、生成AIです。統計に詳しい同級生が、統計に特化したChatGPTの拡張機能を教えてくれました。それを使うと、コードのエラーが出たときに、なぜエラーなのかを解説してくれるんです。もちろん、AIの回答をただ鵜呑みにはできませんが、実践的な問題を解決するのに本当に助けられています。
―― 研究力を上げる一番の肝はなんだと思われますか?
研究に必要な専門的なスキルを身につける上での最大の支えは、ラボの仲間たちの存在でした。特に京都大学のラボは、学生同士で教え合い、助け合うカルチャーが根付いていて、教授には内緒で、学生だけで書類提出のコツなどをまとめた「Tipsサイト」を作っていたりして、その助け合いの精神に何度も救われました。
「もうやめようかな」。3度訪れた壁と、乗り越えられた理由
―― 博士号を取るまでに挫けそうになったことはありましたか?その大きな壁とは何だったのでしょうか。
やっぱり単純に、専門的な勉強は難しいです。さらにつらかったのは、時間の流れるペースですね。メディアの仕事はスピードが命、取材して1週間後には記事が出ることもあります。一方、先ほどのオキシトシンの実験は約8ヶ月かかったのですが、論文になるまでに2年かかりました。実験がうまくいかず、いいデータが出ない時期は、「自分は何も生産的なことをしていないんじゃないか」と猛烈な無力感に襲われました。
また、アカデミックライティングの習得についてもかなり修練が必要です。何度修正を行ってもなかなか指導教員からのOKが出ず、正直に申し上げると「もう博士号なんていらない」と思ったこともあります。
―― なぜ乗り越えることができたのでしょうか?
続けられたのは、三つの大きな支えがあったからだと思います。
一つは、先生の励ましです。先生は「絶対に博士号を取れるように導くから、頑張りなさい」と、厳しくも温かく指導し続けてくれました。
二つ目は、プロセスそのものの楽しさです。研究を進めていく過程で、「研究とは何ぞや」が少しずつ理解できてくる。その感覚自体が面白いのです。研究は成果がついてくればもちろんよいのですが、そこに至るプロセスそのものがとても大事なのですね。
そして何よりもやめずに続けられたのは、自分が本当に好きなこと、興味関心があるものをテーマとしていたことです。実験のために飼い主さんのお宅を訪問し、かわいいネコたちに会える。その瞬間は、理屈抜きに「楽しい」と思えます。そのシンプルな喜びが、苦しい時期を乗り越える原動力になってくれました。
小学1年生の夏休みに取り組んだ自由研究「ねこはみぎきき ひだりきき?」。市の賞を受賞したほか、のちにSNS上でも話題を呼んだ。幼少期からのネコへの尽きない好奇心は、研究の原動力であり続けた。
(画像提供:服部円さん)
―― 博士号取得の達成感はひとしおですね。
達成感はもちろん大きかったのですが、それ以上に「ここからがスタートだ」という思いの方が強かったです。博士論文を書き上げるまでの過程そのものが、アカデミックライティングという理系の作法を身につけるための訓練であり、学位は自分が研究者としてスタートラインに立てるというひとつの証明です。学部参加賞、修士努力賞、博士でやっと研究の作法を習得したことになる、とは言いえて妙で、大学院に入って間もない頃は、なぜ5年もかかるのだろうと思っているところがありましたが、終わってみると、ある分野で研究者としてのレベルに到達するためには、やはり5年かかるんだなあというのが実感です。
編集者と研究者、二つの視点が拓く未来
―― 現在はどのようなお仕事をされていらっしゃるのですか。
編集・ライティングの仕事をしながら、京大で非常勤研究員として研究を続けています。またアウトリーチ活動として書籍の出版もいくつか控えています。引き続き、ネコと人との関係について研究を続けていきたいと考えています。
―― 学位をとったことは、編集者・ライターとしての仕事に、どのような影響を与えていますか?
科学を題材にした仕事ができるようになりました。ライターとして、研究者の方々にインタビューさせていただく機会が多いのですが、身をもって研究プロセスや論文執筆の苦労を理解しているので、より深いレベルで話を聞くことができていると感じます。それに、博士号は研究者としての免状ですので、研究コミュニティのなかでの「信用」につながります。
―― 学位取得後、キャリアプランに変化はありましたか?
編集者と研究者を両立させたい、というのが目下の目標ですね。でも肩書にはあまりこだわってはいません。研究をつづけながら本だけでなく、サイエンスコミュニケーションやアウトリーチ活動にも関心があります。
―― 何か具体的な活動はされていますか?
研究者と編集者の二つの目線を生かした新しい取り組みとして、研究者やアーティストの友人たちと『文化と生物学』というメディアを立ち上げました。科学の側から科学の魅力を伝える“サイエンスコミュニケーション”とは少し異なり、アートやカルチャーの側からサイエンスにアプローチしたり、逆にサイエンスの視点でカルチャーを読み解いたりと、両方の世界を行き来することを目指すプロジェクトです。
服部さんが友人たちと立ち上げた『文化と生物学』Webサイト。「研究はアート作品を作ることとも通じる」という服部さんの実感が、この企画の原点のひとつ。
(画像提供:服部円さん)
―― ファッション誌編集者出身の服部さんならではのコンセプトですね。
ネコ自体に興味があるのはもちろんですが、ネコを取り巻く社会やアート・カルチャーを含めてネコを理解したいと考えているからかもしれません。scienceとアートの両方に興味がある人は少なくはないですが、まだまだ敷居の高さは存在します。楽しんで行き来できるようになれば、市民科学の発展ということにも少しは貢献できるのかな、編集者と研究者、二つのアイデンティティを持つ自分だからこそ挑戦できることがあるのかな、と考えています。
―― 今後挑戦したいことについて教えてください。
企業や研究機関と協業して、何か具体的な商品が作れたらいいなと妄想しています。ネコの食事や住まい、おもちゃなど……私が研究しているネコの行動やヒトとの関係性に関する知見は、従来の“獣医学的な監修”とは少し違う角度から、商品開発や企画に生かせる余地があると感じています。
たとえば、ネコがどんな環境だと安心できるのか、どのような触れ合いがストレスを下げ、逆に愛着を強めるのかといった動物行動学や動物心理学的な視点を取り入れることで、ネコと飼い主の関係性をより豊かにする全く新しい製品が作れるのではないかと。もし興味を持ってくださる方がいらっしゃれば、ぜひお声がけいただけたら嬉しいです。
研究と発信、その両方を大切にしながら、これからも活動を広げていきたいと思っています。
自然科学分野で学位取得を検討中の方へのメッセージ
―― 博士号にトライしようかどうしようか迷っている人に向けてメッセージをお願いします。
私の経験からまずお伝えしたいのは、博士前期課程(修士課程)と博士後期課程(博士課程)では必要な“覚悟の度合い”がまったく違うということです。
修士課程は、学びたいことがあるならば、シンプルにおすすめです。新しいことを学ぶ楽しさがたくさんありますし、視野が広がる実感も得られると思います。
ただ、博士後期課程となると話は別で、「しんどいことのほうが多い」と感じる場面が多々ありました。明確な目標や動機がないと、途中で心が折れてしまうかもしれません。
もし本気で博士号を目指すなら、準備あるいは覚悟しておくべきものが4つあります。「お金」「時間」「英語力」そして「家族の理解」。この4つは欠かせないと思います。
それでも、大学院で得られるいちばんの替え難い財産は、仕事上では決して出会えなかったような人たちと関わり、刺激を受け、支え合えること。高価なものを買うよりもずっと、人生を豊かにしてくれます。
学位取得の経験は旅行に似ているなと思うことがあります。旅をして新しい世界を見て、好奇心が満たされたり、見聞が広まり、心が豊かになったり。私にとっては費やしたもの以上の大きな価値がありました。時間もお金もかかりますが、その過程で得られる発見や出会いは、必ず人生の大きな財産になるはずです。
服部 円(はっとり・まどか)
編集者、研究者。美術大学を卒業後、ファッション誌で編集者として勤務。2011年に友人らとネコとクリエイターをテーマにしたWEBマガジン「ilove.cat」を立ち上げる。2019年に麻布大学大学院獣医学研究科に入学し、2021年に同修士課程を修了。同年、京都大学大学院理学研究科の博士後期課程に入学。2025年3月に博士号(理学)を取得。現在は編集者としての活動の傍ら、新しいメディア「文化と生物学」を立ち上げ、大学でネコとヒトとの関わりについて研究を続けている。
https://www.madokahattori.com/
服部さんの著作のご紹介です!
今回ご登場いただいた服部円さんのご著作について、リケラボ編集部よりご紹介させていただきます。
『ネコは(ほぼ)液体である ネコ研究最前線』
服部 円・著/ KADOKAWA
2025年07月04日 発売
ISBN : 9784041160497
価格:¥1,760(税込)
「なぜか狭い所を好む」「遺伝子レベルでマグロ好き」「ネコにも利き手があった?」──思わず“あるある”と頷き、“そうだったのか”と目が開く。かわいいだけじゃない、ネコにまつわるおもしろくも科学的な実際の研究成果の数々を一挙に紹介した一冊です。
※所属や肩書などはすべて掲載当時の情報です。
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